エレナの背に寄り添うように歩きながら、リノアはふと目を伏せた。 森の奥から吹いてくる風が頬をかすめる。その冷たさが過去のどこかと繋がっているような気がした。 両親の顔は、もうはっきりとは思い出せない。 暖かかった手。優しかった声。輪郭のぼやけた断片が胸の奥の深いところに沈んでいる。 ちょうど戦乱の最中のことだった。私は母に手を引かれ、森へと向かった。「すぐ戻るから、ここで待っていて。……約束だよ」 そう言い残した母は、ふいに背を向けて、揺れる木々の間へと歩き出した。 一度も振り返ることなく、やがて森の影に溶け込むように消えていった。 母の言葉を守ろうとしていたのか、それとも、その言葉に縋っていただけなのか──今となっては、もう分からない。 私は大きな木の根元に腰を下ろし、小さな手をぎゅっと握りしめたまま、母が帰って来るのを待ち続けた。 空気はひやりと肌を撫で、木洩れ陽も音も、どこか滲んで遠くにあるようだった。時間の感覚が薄れたあと、そこに残されたのは胸の奥にしんと降り積もる寂しさだけ。 まるで、世界の端に一人取り残されたような、不思議な静けさだった。 あの場所にあった光と影のゆらぎは、今も心のどこかで音もなく揺れている。 あの時に抱いた感情を私は今でも上手く言葉にすることができない。だけど、あの時間が私という存在を変えたことだけは確かだ。 それが最後の別れになるなんて、まだ幼かった私は知る由もなかった。 顔も声も、もうはっきりとは思い出せないのに、あの背中の輪郭だけは、未だにはっきりと覚えている。──私もエレナのように悲しみを抱えているのだろうか。 リノアはふと思った。 だけど何かが違う気がする…… 兄のシオンが亡くなった時も、私の身体から涙が零れ落ちることはなかった。 誰かと別れること──他の人にとって重要なことなのに、私にとっては、それが自然なことになっている。 エレナが背負っているのは明確な形を持った喪失だ。それは物心ついた頃のものであり、私が抱えている喪失とは少し異なる。 目の前で最愛の人が亡くなったという事実、そして戻らないと分かっている現実…… その痛みは深くて鋭くても、手のひらで触れられるほど輪郭がはっきりしている。 その一方で私が抱えている喪失は、もっと曖昧なもの。悲しみとは違う。感情のどこかがずっ
エレナはふと立ち止まり、耳を澄ませた。 鳥の声に紛れて何かが枝を払う音がする。苔むす大地をゆっくりと踏みしめる気配── 沈黙の底に、ひたりと落ちていく……「リノア……感じた?」「うん。息を潜めて、こっちを見てる」 そう言って、リノアは周囲を見渡した。 その眼差しは、まだ見ぬ何かを捉えようとするかのように冴えわたり、怯えはどこにもなかった。そこにあるのは淡々と気配の輪郭を見極めようとする静謐な集中──深く、澄んだ探知のまなざしだった。 リノアの瞳は、木々の影と光が交差するその先へ向けられたまま動かない。耳をすませ、空気の重さと気流の変化に意識を向けている。 言葉ではなく、それを全身で感じ取ろうとするその姿にエレナは思わず息を呑んだ。今、本当に目には見えない何かと対話している──そう思わせるほどに。 リノアとエレナは互いに顔を見合わせて、何も言わずに頷くと、音の余韻をなぞるように森の奥へ向かって行った。 枝葉の擦れる音が風に紛れこむたび、空気が冷たさを増していく。まるで世界の温度が一滴ずつ失われていくかのように。 踏みしめる足音さえ、森が息をひそめて聴き入っているかのようだった。 光と影の狭間には形なき何かが確かに息づいている。その気配が二人をそっと導いていく。 気づけば空気の色までもが、いつしか変わっていた。──森の色が変わっている。 境界だ──リノアは直感した。 先ほどまで陽光が届いていたはずの場所が、いつの間にか薄暗くなり、色と輪郭が曖昧になっている。 世界の表と裏が交わる、そのあわい──「進まなきゃ……」 エレナが誰に言うでもなく、ぽつりと言葉をこぼした。 それはエレナ自身の胸の奥に向けられた、小さな決意の灯火だった。 不安は確かにある。 目に見えないものへの恐れ、そして、まだ正面から向き合えていない一つの事実への痛み。 最愛の人、シオンの不在だ── 記憶の中のシオンが鮮明であればあるほど、その喪失は重く、エレナの心を冷やした。 その喪失は森の奥に漂う気配と同じように姿を見ることはできない。しかし確かにそこに存在するのだ。 エレナは呼吸を整えると、ほんの少しだけ前に歩み出た。 この森のように、過去の記憶と感情の“あわい”に踏み込まなければ、もう二度と、自分自身の輪郭さえ取り戻せない気がする。 たとえ答え
アリシアの言葉には、呆れとも嘲りともつかない色が混じっていた。ヴィクターをよく知る者にしか出せない、皮肉な態度……「色々とご親切に、ありがとうございました。おかげで少し景色が晴れた気がします」 アリシアは一拍おいて振り返ると、店先の職人とその家族に軽く頭を下げた。「おう、また舞台で見られるのを楽しみにしてるよ」 職人の声に、周囲の何人かも頷きながら手を振った。 アリシアは穏やかに微笑んで、セラと共に石畳の通りを後にした。その背に続くように、春の陽光がほのかに差し込む。 空には白くほどける雲が浮かび、午後の日差しが屋根の縁を金色に照らしている。「アリシア……本当にこの街にいるの?」 セラがためらうように尋ねた。「いるはずよ。アークセリアは安全な街だけど、他はそうでもないからね。自分の身を守らなければならない危険な場所に行くはずないもの」 アリシアは歩を止めず、視線を前へ向けたまま答えた。 アークセリアはヴィクターが潜むには一番、理に適っている。安全で人が多く、気配を紛らせるにはうってつけの場所だ。「私の村は安全だけど……あんなところに来る旅人なんて、殆どいないし」 セラの声は、どこか遠くを懐かしむようだった。 セラの住むカレンド村は、ゆるやかな丘と風に揺れる麦畑に囲まれた小さな牧歌のような集落だ。 観光地として賑わうこともなく、地図の端にそっと置かれたままの静かな場所。外から人が訪れる理由もなければ、わざわざ通りかかるような道筋にもなっていない。そのような場所にヴィクターが向かうとは考えにくい。「他の街は、どこも警備が厳しくて、はっきりした目的がなければ門を通してもらえないし、身分証の提示も求められる。あらかじめ登録された許可証がなければ、中に入ることができないの」 そう断じると、アリシアはわずかに声を落とし、そして続けた。「安全で人の出入りも多い街となれば、ここしかないのよ。リノアを追って来ているはずだしね」 リノアがアークセリアに向かったことは、村長のクラウディアから聞いている。ヴィクターはこの街に来ているとみて良い。「ねえ……そのヴィクターって人、どんな人なの? 危ない人?」 セラは足を止め、ためらいがちにアリシアを見上げた。「全然、あいつ一人では何もできないよ」 アリシアは笑みを浮かべて言った。「正面からぶつ
「まずは、外れの通りを回ってみよう」 アリシアの声が午後の陽射しを跳ね返すように明るく響いた。 セラは頷くと、アリシアの隣に歩を並べた。 陽射しの柔らかな午後、二人は賑やかな通りを歩きながら、商店の軒先に目を留めていく。 店先の木工道具や果物の山を横目に、アリシアは時折、店主の姿を見つけてはそっと声をかけた。「すみません。人を探しているのですが……」 アリシアは、ひと呼吸置いてから続けた。「クローブ村のヴィクターという木工職人です。髪は短く、背丈は私と同じくらい。いつも腰に道具袋を下げています」 店主は少しだけ視線を上に泳がせ、そして首を横に振った。「旅人なんて、このあたりじゃ毎日のように通りますからねえ。よっぽど印象に残る姿でもしてないと……申し訳ないけど、思い当たりませんな」 アリシアは笑みを崩さず、店主に深く礼をした。 返ってくるのは、どこか曖昧で心当たりの薄い返答ばかり。 だが、それは仕方がないことだ。急には見つからないし、何よりヴィクターは影が薄いところがある。「あれ? もしかしてアリシアさんですか? 舞踏家の」 ふいに誰かに声を掛けられた。 アリシアとセラが振り返ると、そこには年配の女性が佇んでいた。 アリシアの言葉に反応した周囲の人たちも次第に足を止め始める。「あの夜、月の光の中で舞っていた、あなたの姿が忘れられないの。夢の中にいるみたいだったわよ。本当に素敵ね、あなたの踊りって」「ありがとうございます。光栄です」 アリシアは、ひときわ柔らかな笑みを浮かべ、優雅に一礼を返した。 そのしなやかな動作一つで、辺りに漂っていたわずかな緊張がゆっくりと解けていく。人々の心が和らいでいくのが、セラにははっきりと感じられた。「その探している人って、どんな人?」 問いかけに、アリシアは先ほど店主に伝えた特徴を簡潔に繰り返し、周囲にも聞こえるように答えた。「ああ……なんとなく、そんな人を見たような気もするけど……」「でも、この前見かけたあの人はもっと髪が長かったかなあ。道具袋は持ってなかった気がするし」「昨日の午後に材木屋のほうで、似たような背丈の人がいたけど……あれは別の旅人だろうねえ」 広場に集まっていた人々が思い思いに記憶を探る。けれど誰の言葉にも決め手はなく、語尾だけが曖昧に揺れていく。 アリシアとセラは
エレナの囁きに、リノアはただ静かに頷いた。 言葉の奥に潜んでいたのは疑念ではない。確信に近い感覚だ。目に見えない何かが、確実にこの島の空気に紛れている。リノアも、それを肌で感じ取った。「……ここに、長くいないほうが良いかもしれない」 エレナはそう言って、小屋の壁に立てかけていた布製の荷袋を肩にかけた。弓も丁寧に取り上げて、背中の革製のホルダーに収める。その動作には、長年の経験に裏打ちされた無駄のなさがあった。 矢筒の残量を指先で確かめた後、エレナはちらりとリノアに目をやった。「準備はいい?」 リノアが頷くのを確認すると、エレナは背を向けて、小屋の扉へと歩き出した。 その背に漂っていたのは強さではなく、何か見えないものに導かれているような儚さ──そのような印象を受けた。 小屋の扉を静かに閉じて、二人は淡く揺れる木漏れ日の中へと足を踏み出していった。 午後の光は木々の隙間から斜めに差し込み、地面にまだら模様の影を描いている。 一見すれば、どこにでもある長閑な森の昼下がり──けれど、その光景には妙な違和感があった。 葉の色がわずかに色あせ、光を受けても艶を返さずにいる。 二人の足音が、かさり、かさりと枯葉の上で規則的に響く。その音さえも、まるで森の奥に吸い込まれていくような不自然な静けさを孕んでいた。「ここ、前に来たことがある気がする」 エレナが呟いた。 けれど、それは現実の記憶ではなく、まるで夢の断片のようにあやふやで、輪郭の定まらないものだった。「私も。けど、それっておかしくない? 私たち、この島に来たのは初めてのはずなのに……」 リノアは胸の奥にぼんやりと広がる既視感に息をのんだ。 その場に、ひと時の沈黙が落ちる。「……怖いわけじゃないの。ただ……進んだら、何かが壊れるような気がして」 エレナの言葉は誰に向けるでもなく、そっと森へ溶けていった。 リノアは言葉を返さず、ただ静かに頷く。 言葉にしてしまえば、胸の奥に漂うこの微かな何かが崩れてしまうような気がしたからだ。 風が梢を揺らし、陽の光が木漏れ日になって足元を漂う。その美しささえ、どこかよそよそしく感じられる。 リノアはそっと視線を横に送った。 エレナの張り詰めた静けさの横顔の奥に、隠しきれない不安の色が微かに浮かんでいる。「怖いと感じるときって、きっと──
エレナは石造りの小屋の前で立ち尽くしていた。 遠くから聞こえる鳥のさえずり──けれど、どこか霞んでいる。現実の音なのか、それとも記憶の残響か…… ふと、足元の影が揺らめき、エレナは視線を落とした。「どうして……こんな場所に……」 目に飛び込んできたのは──古びた懐中時計だった。 エレナはゆっくりとそれを拾い上げた。銀の細工は擦り切れ、蓋にはうっすらと指の痕が残っている。 蓋を開けば微かに音を立てて時を刻もうとするが、針はもう動かない。そこに刻まれた時間は、二人が最初に出会った瞬間を差し示していた。 掌に残る重みが記憶の扉をゆっくりと開いていく。 エレナは自分の中で、ずっと閉じ込めてきた感情が揺らぎ出すのを感じた。 シオンが森の研究に夢中だった頃、シオンがよく胸元に下げていたものだ。「観察の時間を記録するため」──そう言って笑った、あの横顔が脳裏に浮かぶ。 そのとき風が吹き抜け、懐中時計の内蓋に仕込まれていた小さな写真が、ふわりと宙に揺れた。 そこには、小さな草原に射し込む柔らかな陽光の中、シオンと、その隣で身を寄せるように微笑む私の姿があった。時間の彼方に置き去りにしてきた、まだ壊れる前の記憶── 胸の奥で記憶が静かに波紋を広げていく。 これはシオンが遺したものではなく、私が置き去りにしてきた想いだ。「もう平気だと思ってたのに……」 囁くようなその声に、森の風がそっと頬を撫でた。慰めるように、もしくは確かめるように。「私……ずっと、忘れたふりをしてただけだったんだね」 声は震えていない。けれど、その目の奥には、ずっとしまっていた想いが溶け出していた。 あのとき言えなかった言葉が、今も胸の奥に引っかかったままでいる。 永遠に届かない想い…… 私はまだシオンのことをきちんと送り出せていない。シオンが亡くなったという現実から背を向けたままだ。 強くあろうとするほど、あの人との記憶に触れるのが怖くなる…… あの優しい声、穏やかな横顔、森のことを語るときにだけ見せた無邪気な情熱──その全てが今もなお、私の中では色あせていない。「エレナ、どうしたの?」 リノアの声がそっと耳に触れ、現実へと感覚が引き戻される。「あれっ……消えた……?」 エレナは掌を見つめた。 さっきまで、そこにあったはずの懐中時計がない。 あの写真も、あ